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ブーマー・ウェルズ リンク集

オールバニ州立大ではフットボールの選手を目指していたものの、NFLの入団テストに不合格となり、マイナー契約としてプロ野球界に進んだ。1981年にトロント・ブルージェイズ、1982年にミネソタ・ツインズを経て、1983年に阪急ブレーブスに入団。登録名を『ブームを呼ぶ男』の意味のブーマーとした。 入団1年目から5年連続して3割を記録し、2年目の1984年には打率.355、37本塁打、130打点で来日外国人選手初となる三冠王と、MVPを獲得、リーグ優勝に貢献した。1987年に再び打点王、1989年には首位打者と打点王の2冠を獲得。 1992年に福岡ダイエーホークスに移籍し、38歳で打点王を獲得するものの、シーズン後半に絶不調に陥ったこともあり、この年限りで退団。10年間の現役生活で打率3割以上を7回、打率.350以上を2回、30本塁打以上を5回、40本塁打以上を3回、100打点以上を5回記録した。 200cm、100kgの巨体からパワーヒッターを想像させるが、器用さと優れた選球眼を兼ね備えた打撃の名手であった。非常に柔らかいスイングを持ち味とし、三振の少なさ、打率の高さは特筆に価する。通算打率.317は4000打数以上では落合博満を上回り、右打者では最高成績である。ブーマー自身も「自分の本質はむしろアベレージヒッター」と自己分析している。また、守備でもゴールデングラブ賞を2回獲得している。器用なことも自覚しており、「必要ならショートだって守るし、1番だって打つ」とも語っている。 1994年には、春季キャンプからシーズン途中までオリックスの臨時打撃コーチ(同年在籍したフランシスコ・キャブレラの専属)を務めた。 現在は野球代理人(エージェント)であり、アメリカと日本の野球界の橋渡し役として活躍。ナイジェル・ウィルソンなどを日本球界に送り込んだ。ウィルソンが活躍していた頃に受けた週刊ベースボールのインタビュー(懐かしの外国人選手の今を紹介する企画)では、「(ウィルソンを日本ハムに送り込んだことについて)上田利治に恩返しがしたかった」と語っている。 PR大阪 ナース募集

* 入団時から「飛ばし屋」として知られていたこともあり、阪急西宮球場では当初、ブーマーが打席に入った際には、アストロビジョンが当たった打球で故障しないようシャッターを下ろして保護しようという動きもあった。実際にはそのようなことはなかったが、「ブーマー曲線」なる打球の角度・伸びがシミュレーションされたことがある。 * 入団初年度に「彼が場外本塁打を打ったら『ブーマーパン』というパンを観客にプレゼントする」という企画が行われたことがあったが、彼は場外本塁打を打つことができず(日本野球への順応の問題かその年の本塁打数は17本に終わっている)、企画はあえなく失敗に終わった。後述の場外本塁打を打った時、当時を知るスタッフは残念がったという。 * 来日直後の春キャンプで場外本塁打を連発する彼の姿をスポーツニュースで見たお年寄りが、衝撃のあまり心臓発作で倒れてしまうという出来事があった。 * 1988年7月13日には阪急西宮球場で渡辺久信(西武)から飛距離162mの場外本塁打を放ち、落下地点が確認された本塁打としては日本最長記録となった。 * オリックス時代に、レフトスタンドを指差し予告ホームランをし、見事レフトスタンドにホームランを打ったことがある。 その他プレー関係 [編集] * 1985年、ユニフォームを忘れて同僚の山沖之彦投手(190cmの長身)のユニフォームを借りて試合に出場したことがある。しかしサイズが合わずバッティングも窮屈になってしまった。最初はこの年だけ在籍した体格のいいジョー・ヒックスのユニフォーム借用を提案されたが「オレはあいつほど太っていない」と拒否したという。また、この時の仕草が360°モンキーズの杉浦双亮にモノマネされた。 * アンダースローの柳田豊(近鉄)を苦手としており、彼を打つために左打席に立ったこともある。 * 1986年の対近鉄戦で小野和義から死球を受けマウンド付近で大暴れして退場処分となったが、退場の際に近鉄の捕手の梨田昌孝に謝罪をしてからベンチに下がった。また死球を受けて、相手投手のいるマウンドを目掛けていくシーンは、その年のシーズンオフの「プロ野球珍プレー好プレー大賞」などで何度も取り上げられた。 * 祐徳薬品工業の『パスタイム』のCM起用され、死球を受けたブーマー本人がマウンドへ向かった…と思ったら薬局に駆け込んで、薬剤師に湿布薬を求める、といった内容で話題になった(商品名を言った後、薬剤師に「ハンキューベリーマッチ」という駄洒落付きであった)。

* ブーマーは当初「ウェルズ」と登録される予定であったが、同年入団したバンプ・ウィルスと紛らわしいため、元々マイナー時代にファンからブームと呼ばれていたことから「ブームを呼ぶ男」という意味合いでブーマーという登録名を付けられることになった。ウィルスも同様に「バンプ」と登録された。 * 来日初年、川崎球場で試合前の練習をした後「ところで本番の試合はどこでするんだろう」と思っていたところ、その後スタンドに観客が入ってきたので驚いたといわれている。当のブーマーは川崎球場をアメリカで言うところのマイナーリーグ、つまり二軍の野球場だと思い込み、試合は別の野球場に移動して行うものだと考えていたらしい。また、その日の川崎球場は客が不入りで、それこそマイナーリーグ並みの僅かな観客数だったため、その光景には「これが日本のプロ野球なのか」と特に驚いたようである。 * 阪急に在籍していた頃は、当時は外国人選手といえどもタクシー送迎などの待遇はなく、自宅から阪急電車を利用して球場へ通っていたようである。電車の扉が本人にとっては低すぎ、扉を「くぐって」電車に乗り込んでいたという。 * オリックス在籍中の1989年9 月25日のダイエー戦。3回裏にホームランを放った門田博光をホームで出迎えた際のハイタッチで門田の右腕が脱臼。この時、門田は登録抹消までには至らなかったが、シーズン終盤での貴重な約1週間を棒に振ってしまい、当事者ながら悪気はなかったブーマーもひどく落ち込んでしまった。次の日の日本ハム戦で「門田の分も…。」という気持ちで心に気するものがあったようで対戦相手の西崎幸広からホームランを放ち、試合後のインタビューに対し、「今日は何も言われなくても自然に燃えてきたよ。」と答えていたが、これが尾を引いてしまい、近鉄・西武とオリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、このハプニングがなければ違った結果が出ていたかもしれない、と評する者も多い。 * 選手名鑑の「癖」の欄に「ベンチで奇声をあげる」と書かれていた。 * サインを書く際には、サインの下に「ブーマー」とカタカナで書き込んでいた。またファンのサインの求めを決して断らず、ダイエー移籍後、平和台球場の前でファンの求めに応じて試合後も長く残ってサインをする姿を目撃されている。 * 阪急西宮球場で試合の日には娘を球場に連れてくることがあり、肩に小さな娘をちょこんと乗せて球場を出入りする姿がしばしば目撃されている。 * 阪急ブレーブス色を一新するオリックス球団と土井正三監督には不満も多かったようで、特に4番を外されたことについては、「土井監督は私に敬意を払わなかった」とコメントし、ダイエーへの移籍の要因となったと語っている。また、「オリックス・ブルーウェーブ」としての初の公式戦に、わざと「ブレーブス」のロゴのユニフォームを着てプレイしてみせたが、当初誰も気がつかなかった。 * 恐妻家であり、来日してから1日の小遣いは2,000円にされており、その中から食事代を出さねばならず、食事はフライドチキンとうどんばかりだったという。みかねた上田監督が「たまには牛も食わんとあかん」と、ステーキを何度もご馳走し、公私にわたって面倒を見たと言う。

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